秋のいたち川と山之内郷の古刹を巡る   ①

ブログをアップするのが遅くなってしまいましたが
13日鎌倉ガイド協会で、いたち川沿いの散策と、周辺の
古刹を巡ってきました。

今回は鎌倉を離れて横浜市栄区近辺を散策したのですが
嘗ては中世鎌倉の要塞の地であったそうです。

大船駅からバスに乗って、最初に訪ねたのは「光明寺」

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往古聖徳太子の寵臣秦河勝が草創した仙福寺という寺であった。

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かつて親鸞聖人の彫られた太子像が安置されていたが
残念ながら歴史の闇に沈み現存していない。


光明寺を後にして

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いたち川の由来

「出で立ち川」から変わったと考えられています。
「いざ出立」と鎌倉街道を下っていく際に
安全を祈る出発の儀式に由来するようです。

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昭和35年ごろまでは湿地の残る美しい川だったいたち川も
周辺の急激な住宅化に伴い、動植物の姿の無い水質悪化の進んだ川となってしまった


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これを改善するため「、昭和57年から、自然の河原を再現する事業が開始されました。

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しばし川を離れて「証菩提寺」へ

頼朝が石橋山の戦いで平家方に惨敗した。
その時三浦介義明の弟、岡崎義実の嫡男で、25歳の佐那田与一義忠が
敵将と一騎討ちをして戦死した。

頼朝はその間に闇にまぎれて戦場を離れ、上総に逃れたと
「源平盛衰記」には記されている。

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その後頼朝は、千葉・三浦・和田等関東の豪族を味方にして鎌倉に入り
源氏の本拠地とすると、自分の身代わりのようになって戦死した
佐那田与一の忠義に報い、その追善供養のためにこの寺を建立した。

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鎌倉の東北で鬼門に当たるので、忠義の佐那田を祀って供養すれば
必ず幕府鎮護になるということも、建立の理由に含まれていた。

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与一の父、岡崎義実の死後、これを大日堂に祀り、岡崎堂と呼んで
寺の中心が次第にこれに移ったので、義実の法名「証菩提」を寺号とするようになった。


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再びいたち川へ

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現在では様々な動植物があふれる、自然豊かな川へと再生された。

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川にはいろいろな形の橋が架けられていて、見ているだけでも面白かったです。

続きます。

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[ 2015/10/15 21:10 ] 鎌倉散策 | TB(-) | CM(-)